人柱
― 長崎県忠霊塔、次の百年へ ―
奉仕人・神 葵、その歩みと志
昭和九年(一九三四年)九月、長崎県大村市三城町、三城城跡の本丸跡に長崎県忠霊塔が建立された。
その建立は、行政だけによって成し遂げられたものではなかった。大村連隊区司令部、大村連隊、長崎県、県下市町村などによって組織された建立委員会の呼びかけに、県民が浄財を寄せ、さらに勤労奉仕によって建設を支えた。長崎県の資料によれば、忠霊塔は戊辰戦争以降の長崎県籍戦没者六万余柱を祀る県内の中心的な戦没者追悼施設であり、約二万一千四百七平方メートルに及ぶ広大な敷地の中央に、高さ約二十三メートルの鉄筋コンクリート造三重塔が建つ。県はその建造物について、全国的にも貴重なものであり、末永い保存が求められるとしている。
建立から九十二年。
二〇二六年現在、忠霊塔は百年という大きな節目を目前にしている。二〇三四年、建立百年を迎えるまで、残された時間は八年である。
しかし、百周年を迎えるということは、単に記念式典を開催し、建物をきれいにして、その日を祝えば終わるという話ではない。むしろ重要なのは、百年を迎えた翌日からも、その場所を誰が守り、誰が歴史を語り、誰が次の世代へ渡していくのかということである。
その問いに対し、現場で一つの答えを示そうとしている人物がいる。
神 葵。
地域活動や公益活動に取り組みながら、長崎県忠霊塔の護持に携わり、清掃、環境整備、巡回、参拝者支援、歴史調査、平和教育、奉仕者との連携、情報発信などを継続している人物である。
神は、自らの活動について語る際、しばしば「次の世代に遺す人柱になる」という言葉を用いる。
この言葉は、神という人物を理解するうえで重要な鍵となる。
ここでいう「人柱」とは、自らを犠牲にするという意味ではない。先人から受け取ったものを、自分の時代で途切れさせることなく、できる限り整え、記録し、人へ伝え、自分の後に続く世代へ渡す。そのための「柱」として、自らが一時代を支えるという考え方である。
神の活動を見ていくと、その言葉が単なる理念ではなく、日々の具体的な行動として現れていることが分かる。
現場に立つ
神の活動の中心にあるのは、まず現場である。
忠霊塔へ足を運び、境内を歩き、建物や参道の状態を確認し、清掃を行い、必要な場所には手を入れる。境内の草木が伸びれば草刈りを行い、落ち葉があれば掃除し、トイレも清掃する。参拝者が訪れれば対応し、高齢者などへの支援が必要であれば手を貸す。
文字にすれば単純な作業に見える。
しかし、忠霊塔の境内は約二万一千平方メートルに及ぶ。建物の周囲だけを掃除すれば終わるような規模ではない。特に夏季には雑草が急速に成長するため、継続的な植生管理が必要になる。
二〇二六年夏、神は複数回にわたって草刈りを実施している。本人の活動記録では、夏季の植生管理について十回から二十回程度の作業を想定するなど、広大な境内を年間を通じて維持するための具体的な計画も立てている。
さらに、刈払機を使用する作業では安全面にも配慮し、参加者に対して作業上の注意を共有している。暑さの厳しい時期には、熱中症の危険を考慮して作業時間や内容を調整するなど、奉仕者が継続して活動できる環境をつくることも課題としている。
つまり、神にとって「奉仕」とは、ただ自分が汗を流せばよいというものではない。
誰かが安心して参加でき、次の人がまた活動できる環境をつくることまで含めて、護持なのである。
神の活動を追っていくと、次第にその視野が広がっていることに気づく。
最初は清掃や草刈りという目に見える作業であっても、現場に立ち続けることで、建物以外にもさまざまな課題が見えてくる。
雨が降れば、参道や排水の状態が気になる。強風が吹けば、倒木や落枝の危険がないかを見る。樹木が成長すれば、石碑や施設に影響を及ぼしていないか確認する。参拝者が歩けば、足元に危険な場所がないかを考える。
二〇二六年には、大雨の後に境内や参道、法面、排水施設などを巡回し、環境の状態を確認する活動も行われている。
また、境内の樹木については、風致地区という土地の性格も踏まえながら管理を考え、自生する幼木などについても確認している。
こうした活動から見えてくるのは、「掃除をする人」から「この場所全体を管理する人」への変化である。
建物を守るとは、建物だけを見ることではない。
そこへ至る道があり、樹木があり、土地があり、参拝者がいる。そのすべてを含めて、慰霊の場として機能させなければならない。
神は現場でそれを一つずつ確認している。
一人で抱え込まない
しかし、神の活動にはもう一つ特徴がある。
自分一人ですべてを背負おうとはしていないことである。
二〇二五年末から二〇二六年にかけて、神は市民有志らとともに長崎県忠霊塔を継続的に支えるための組織づくりを進め、「長崎県忠霊塔敬事会」を立ち上げた。
清掃、参拝支援、慰霊行事への協力、平和について学ぶ機会の創出などを、継続的な奉仕活動として組織していくためである。
二〇二六年八月には、定例活動に地域住民や関係者らが参加し、本殿周辺の除草などを行った。神自身は作業だけに専念するのではなく、参拝者や遺族への対応なども担っている。
ここに「人柱」という思想のもう一つの意味がある。
自分が永遠に働き続けることを目指すのではない。
自分がいなくなっても続く仕組みをつくる。
そのために、人を集め、経験を共有し、奉仕の方法を伝え、次の担い手を育てる。
それは、自分の功績を大きくする活動とは正反対のものである。
三城城跡まで視野に入れる
神の視線は、忠霊塔の敷地だけにもとどまらない。
忠霊塔が建つ場所は、戦没者慰霊の場であると同時に、戦国時代の大村純忠ゆかりの三城城跡でもある。
三城城は永禄七年(一五六四年)に築かれ、大村氏の歴史を語る重要な城跡であり、現在も土塁や空堀などの遺構が残る。
神は忠霊塔の護持活動と並行して、三城城跡の歴史や環境にも目を向けている。
現地の案内板や城跡碑の不足について地域の声を拾い、案内環境の改善について行政と協議する。また、樹木によって見えにくくなった明治期の墓碑などについても現地を確認し、必要な剪定について関係部署と相談している。
これは、忠霊塔だけを一つの施設として扱うのではなく、三城という場所そのものの歴史を一体として考える姿勢である。
戦国の歴史があり、近代の歴史があり、戦争の歴史があり、戦後の慰霊の歴史がある。
その異なる時代の記憶が、一つの場所に重なっている。
神は、その場所を歩きながら、それぞれの歴史を次の世代へどう伝えるかを考えている。
歴史を調べ、記録する
神が力を入れているのは、現地での作業だけではない。
歴史を調べ、それを記録することにも力を注いでいる。
忠霊塔の建築、境内、石碑、納骨施設などを確認し、写真を撮り、図面を作成し、情報を整理する。さらに、その成果をウェブサイトなどを通じて公開している。
長崎県忠霊塔の公式ウェブサイトを開設したのも、その一環である。
歴史、施設、交通、参拝、奉仕活動などを整理して掲載し、これまで現地に行かなければ分からなかった情報を、インターネット上からも知ることができるようにする。
一見すれば、これは広報活動にすぎないようにも見える。
しかし、神にとってはそうではない。
記録されていないものは、時間とともに失われる。
建物は残っても、その建物について知る人がいなくなれば、そこにある意味は薄れていく。
誰が建てたのか。
何のために建てたのか。
どのような施設なのか。
どのような人が守ってきたのか。
どんな出来事があったのか。
そうした一つ一つを記録しておけば、百年後の人々は忠霊塔を単なる「古い塔」として見るのではなく、そこに積み重なった歴史を知ることができる。
だから神にとって、カメラやパソコンもまた奉仕の道具なのである。
人と人をつなぐ
二〇二六年、忠霊塔にはさまざまな人々の思いが寄せられている。
広島県籍の退役自衛官有志から千羽鶴が寄せられ、忠霊塔に奉納された。また、長崎原爆の日である八月九日には、平和への思いを込めた書が寄進された。
こうした奉納は、忠霊塔が過去の戦没者を祀るだけの場所ではなく、現在を生きる人々がそれぞれの思いを持って訪れ、祈りを託す場所でもあることを示している。
また、学校との接点も生まれている。
二〇二六年七月には、玖島中学校の生徒らによる三城城跡・忠霊塔での平和学習が行われた。神はこうした教育活動にも関わり、歴史を「本で読むだけのもの」ではなく、実際の場所に立って学ぶものとして伝える取り組みを進めている。
さらに、地域のボランティア、関係団体、自衛隊関係者などとの連携も模索している。
神がつくろうとしているのは、忠霊塔を中心とした一つの人のつながりである。
慰霊する人。
学ぶ人。
奉仕する人。
研究する人。
地域で支える人。
そして、次の世代へ伝える人。
それぞれが異なる立場から同じ場所に関わることで、忠霊塔は一人の人間に依存することなく、地域の中で生き続けることができる。
百年を迎えるためではなく、百年の先へ
二〇三四年、長崎県忠霊塔は建立百年を迎える。
そのとき、神が何をしているかは分からない。
しかし、現在の活動を見れば、彼が目指しているものが「百周年を成功させること」だけではないことは分かる。
百周年の翌年にも清掃する人がいること。
十年後にも歴史を調べる人がいること。
さらにその先にも参拝者が訪れること。
子どもたちが忠霊塔の存在を知っていること。
新しい奉仕者が自然に加わること。
そして、誰かが「ここは自分たちの地域の歴史を伝える大切な場所だ」と思えること。
そこまでを考えて、現在の活動を組み立てている。
草刈りは今日のためだけではない。
記録は現在のためだけではない。
ウェブサイトは今の参拝者だけのためではない。
奉仕者を増やすことも、神自身のためではない。
すべては、現在から未来へ渡すための準備である。
人柱になるということ
神は「次の世代に遺す人柱になる」と語る。
その言葉だけを聞けば、大きな志を掲げた言葉に聞こえるかもしれない。
しかし、実際の活動を見れば、その言葉の意味はむしろ地味である。
朝から草を刈る。
汗をかきながら境内を歩く。
誰も気づかない場所の掃除をする。
雨の後に排水を確認する。
樹木を調べる。
石碑を確認する。
行政へ相談する。
奉仕者に連絡する。
学校を迎える。
参拝者に対応する。
写真を撮る。
資料を調べる。
文章を書く。
そして、それをまた記録する。
こうした一見目立たない仕事を積み重ねることによって、一つの場所が未来へ残っていく。
人柱とは、自分が歴史の主役になることではない。
自分が歴史と未来の間に立つことである。
先人が残したものを受け取り、自分の代で守り、整え、必要なものを加え、次の人が受け取れる状態にして手渡す。
その役割を、自ら引き受ける。
それが神のいう「人柱」なのだろう。
一九三四年から二〇三四年へ
一九三四年、県民は浄財を寄せ、勤労奉仕によって忠霊塔を築いた。
そのとき、この塔が九十年以上後の未来まで残ることを、建立に携わった一人一人がどこまで想像していたかは分からない。
しかし、誰かが残したものを、次の誰かが守った。
その繰り返しによって、忠霊塔は二〇二六年まで立ち続けている。
そして今、百年を目前にした時代に、新たな奉仕人がその歴史の一頁を担っている。
神 葵。
彼が残そうとしているのは、自分の名前だけではない。
忠霊塔の姿であり、そこに残る歴史であり、奉仕する人々の記憶であり、次の世代がこの場所を知るための記録である。
そして何より、「守る人がいる」という事実そのものを、次の世代へ残そうとしている。
百年とは、長い。
一人の人生では届かない。
だからこそ、百年という歴史は、人から人へ渡される。
一九三四年に建てた人から、戦後に守った人へ。
戦後に守った人から、現在を生きる人へ。
そして現在から、まだ生まれていない未来の人へ。
その長い継承の途中に立つ者は、決して永遠に生きることはできない。
だからこそ、自分がいなくなった後にも残るものをつくる。
それが、人柱になるということなのかもしれない。
二〇三四年、長崎県忠霊塔は建立百年を迎える。
だが、本当の意味で問われるのは、その日ではない。
百年を越えたあと、誰がこの場所を守るのか。
誰が歴史を語るのか。
誰が草を刈るのか。
誰が記録を残すのか。
誰が子どもたちに伝えるのか。
その答えは、まだ決まっていない。
だからこそ、今から準備する。
神 葵は、そのために現場に立っている。
先人から受け取ったものを、次の世代へ。
今日守ったものを、明日へ。
九十二年の歴史を、百年へ。
そして百年の歴史を、さらにその先へ。
長崎県忠霊塔の次の百年は、二〇三四年になって突然始まるものではない。
すでに今日から始まっている。
その歴史の一頁を担うために、一人の奉仕人がいる。
「次の世代に遺す人柱になる。」
その言葉を胸に、神 葵は今日も三城の地に立つ。
同志より捧ぐ。